19320116致增田涉

320116致增田涉



    拝啓、一月十日の御手纸は拝見致しました。
    『十字街頭』は左聯の人人が变名を以って書いたもので近い内に禁止されるだろ—と思って居ります。『鐵流』を論じた作者の正体は不明ですがロシア語を知る処から推測するとあの国に留学した事のあるコムニストであるらしい。私の筆名は它音、阿二、佩韋、明瑟、白舌、遐觀etc.です。
    『域外小說集』の発行は一九七年か八年で私と周作人が日本の東京に居た時です。その時支那では林琴南氏の古文沢の外国小說が流行で文章は成程うまいが誤沢が大变多いから私共はこの点について不満を感じ矯正したいと思ってやり出したのです。しかし、大失敗でありました。第一集(千册印刷した)を壳りだしたら半ケ年たって兔角二十册壳れました。第二册を印刷する時には小さくなって五百册しか印刷しなかったが、これも遂に二十册しかうれなかった。それで、お仕舞、兔角その年(一九七か八)から始まりその年に终ったので、薄ぺらい二册だけです。その残本——殆んど全部である処の残本——は上海で書店と一所に焼失しました、だから、今にあるものはも—珍本です、誰も珍らしくしないけれども。内容を言へば、皆な短篇で米のアラン·ポ—、露のガルシン、アンドレエフ、波蘭のシェンキヴィッチ(HenrikSienkiewitz)、仏のモ—パサン、英のワイルド等の作品で沢文は大变むつかしい。
    私も汝が東京に行って書いた方がよいと思ひます。出鳕目に書いてもよいから。出鳕目に書かなければえらくならない。えらくなってそ—して、その出鳕目を修正すればそれでよいのです。日本の学者や文学者は大抵固定した考をもって支那に来る。支那に来るとその固定した考と衝突する処の事実と遇ふ事を恐れます。そ—して迴避します。だから来ても来なかったと同じ事です。ここに於いて一生出鳕目で终ります。
    私の從兄弟の画に对しては何の御礼をもする必要はないのです。彼は田舍に居て悠々然として暮してるのだから绘を少し書かしても何の骨折もありません。その上、も—満足して居るだろ—。胸に秘てる自分の伝記にも—「自分の绘は東瀛に渡りました」と書いて居るだろ—から。
    Miss許には何も送らないで下さい、東京に往ても。かへて、文字上の「よろしく!」の方が味がある様です。伝言すると「さ—ですか、ど—も有難ふ!」、丁度、電話口に对して御辞儀してあたまを一生懸命にさげてる様です。先日、御尊父様から葉書をいたゞきました。私は旧暦新暦混沌の国に居るのだから年賀状一枚までも出しませんでした、矢張りど—か「よろしく!」御伝言願ひます。そ—して御令堂様にも奥様にも木実様にも。

ル—シン頓首上一月十六夜

增田仁兄


译文
    拜启:一月十日惠函奉悉。
    《十字街头》是左联的人化名办的刊物,恐怕不久就会被禁止的。评论《铁流》的作者底细不明。从他懂得俄文来推测,像是在苏联留过学的共产主义者。我的笔名是它音、阿二、佩韦、明瑟、白舌、遐观etc.
    《域外小说集》发行于一九七年或一九八年,我与周作人还在日本东京。当时中国流行林琴南用古文翻译的外国小说,文章确实很好,但误译很多。我们对此感到不满,想加以纠正,才干起来的,但大为失败。第一集《印一千册》卖了半年,总算卖掉二十册。印第二集时,数量减少,只印五百本,但最后也只卖掉二十册,就此告终。总之,在那年(一九七或八年)开始,也就在那年结束,只出了薄薄的两集。余书(几乎全部是余书)在上海和书店一起烧掉了。所以现存的便成珍本。但谁也没有珍视它。至于内容,都是短篇:美国的爱伦。坡,俄国的迦尔洵、安德烈夫、波兰的显克微支(HenrikSienkiewitz),法国的莫泊桑,英国的王尔德等的作品,译文很艰涩。
    我也认为你还是到东京去写作好,即使是胡乱写写也好,因为不乱写就不能有所成就。等到有所成就以后,再把乱写的东西改正就好了。日本的学者或文学家,来中国之前大抵抱有成见,来到中国后,害怕遇到和他的成见相抵触的事实,就回避。这样来等于不来,于是一辈子以乱写告终。
    对于我的表兄弟的画,不必还什么礼。他在乡正过着清闲的日子,让他画几张画,并不费事。而且他恐怕已感到满足,也许在藏于他心里的自传中,已经写下“我的画已传到东瀛”了。
    请什么也别送给Miss许,你即使到东京后,还是在文字上“问侯”有味。她听到我转告时,一定会说“是吗?真是多谢了!”就像对着电话筒频频施礼致意一样。前几天收到令尊的明信片,我因住在新旧历混用的国度里,连贺年片也没有寄一张,祈代问侯。令堂、令夫人和木实君。

鲁讯顿首上一月十六夜

增田仁兄